2011年 03月 03日
映画一揆 大阪電撃作戦は3/5から! 犀の角—ささやかさによる大いなる勝利 夏目深雪(ライター)(再掲載) |
映画は最初からさほど彼らの姿を明確に提示するわけではない。まず何やら重そうなポリタンクを大事そうに抱えた彼らの集団が遠景で捉えられ、それからもう一つの集団に襲われ、逃げまどい、ポリタンクを奪われ、その液体を目の前でこぼされる姿を映す動きのあるショットに切り替わる。そして騒乱の中、一人の少年が少女を追いかけ、追いつき、ポリタンクを奪うと同時に彼女を突き飛ばす。地面に倒れた少女を見て少年は思わず「大丈夫?」と声をかけ、少女が顔にかかった前髪を手で払いそのふっくらとしたおでこを見せた時、何か決定的な事が眼前で起きてしまったという予感で観客の胸は震える。
その、取り返しがつかないことが起きてしまったのではないかという予感は徐々に事実に裏打ちされていく。彼ら—オウム真理教を彷彿とさせる、「カフ・サマージ」と称する宗教団体。彼らの提示の仕方がなかなか巧妙なのである。彼らの住居の水道管が壊れているのだが、水道屋が真面目に修理する気がないらしいこと。ポリタンクは生活用水のためであったこと、常に近隣住民の嫌がらせを受けていることなどが、淡々と、内容から考えるといささかぶっきらぼうに描写される。
オウム真理教と言えば、1995年3月に起きた、世間を震撼させた無差別テロ、地下鉄サリン事件を思い出さない人はいないだろう。私自身も、その二ヶ月前に起きた阪神淡路大震災とともに、自分の足元の地面がガラガラと崩れ去ってしまうような、何か根元的な恐怖を感じたことを今でもよく覚えている。あれから15年経ち、村上春樹は事件の被害者、加害者双方に綿密なインタビューを行い、書籍として世に問うた。森達也はオウム真理教の残されたメンバーに密着し、彼らの素顔を描写すると同時にマスコミ報道の在り方を問うたドキュメンタリーを発表した。しかしフィクション、実写の映画というといささか分が悪いようだ。オウム真理教、地下鉄サリン事件に真正面から取り組んだ映画というと『カナリア』(塩田明彦監督・2005年)くらいしか浮かばないのである。
アメリカでは9.11の後、それを題材とした映画が何本も、時には外国人監督まで集めて(『セプテンバー11』・2003年)作られたのに較べ、邦画界は一部を除いてこの恐ろしい事件を、黙殺あるいは封印したかのようだ。それは、9.11がイラクという分かりやすい「外部の敵」により行われたテロであったのに比べ、オウム真理教は明らかに同朋、しかし同朋と認めたくない同朋であったことが原因の一つとしてあるのかもしれない。それは、「外部の敵」ではなく、私たちの内部に巣くうもの、いつもは押しこめているのだが、何かきっかけさえあればぬるぬると表に出てきてしまうようなものが寄り集まって形になったものなのではないか、そんな恐れがあるいは遠因であるのかもしれない。私たちはきっと忘れたかったのだ。
映画はそんな私たちの恐怖を無駄に呼び起こして拒絶反応を起こさせないように、しかし彼らへの情緒的な同調は避け、嫌がらせに耐え修行に励む信徒たちを淡々と描写する。サリン事件に対しての直接の言及はないのだが、「他の場所を探しましょう」という信者に、リーダー格の女性が言う「ここだって随分探したのよ」という言葉や、嫌がらせの音頭を取っている元信者の「一体何人殺したんだよ!」という言葉が、決定的な恐ろしい事件が過去にあったことを想起させるのみである。
そして宗教団体と市民の対立を縦軸とすれば、同時に横軸として愛らしい少女と不幸な少年のボーイ・ミーツ・ガールの物語を滑り込ませる荒業をやってのける。‘ポーシャ’と名乗るその少女。過去の傷から宗教に傾倒し、「現世の幸福に執着しない」ことで救いを得ようとするこの可憐な少女に感情移入しないでいることは難しい。オウムのような新興宗教団体とその信者が孕む闇を、抽象ではなく、あくまで血の通った一人の少女を通してその内面へと観客を取り込んでゆく過程は非常に巧みである。仲間に苛めにあい、「カフ・サマージ」への嫌がらせを強要され、日々殴られながらパシリのようなことをやっている少年と、そんな少女がまるでお互いの闇に引き寄せられるように辿り着いたのが屋上であったのも、まるで必然であるかのようだ。屋上から臨む夕焼け色に染まった「現世」は、暖かな人々の営みが感じられ、その後景と溺れそうになって必死に手を伸ばしお互いを求め合っているような少年と少女の内面との乖離に思わず息を呑む。悲劇の予感は二人に貼り付いているようであり、その体を縛り、ぎこちなくさせる。そのまるで事故のように起きる接吻が、何か境界線を切り裂くような、予感を抱かせるとしても。
少年と少女のささやかな邂逅は、やりすぎた嫌がらせが、教団側の爆発的な反動となって現れた暴力事件により、あっけなく終わりを迎える。市民側の一人を「死ぬほど」殴ってしまった教団は、立ち退きを余儀なくされ、少年と少女は別れの時を迎える。非難がましい顔一つせずに去ってゆく彼らを見る時、私たちは、私たちが闇に葬り去っていた、しかしだからこそ十五年もの間ひっそりと自らが背負い続けてきた荷物の正体を知ることになる。そして、そこには未来へのささやかな希望さえ用意されているのだ。この物語は村上春樹のベストセラー小説「1Q84」のように、運命的な偶然も、絶対の愛も、パラレルワールドも、新しい命も、産み出さない。ただ、少女が言い残したもう一つの名、本当の名が残されるだけである。しかしそれこそが、少女の送るはずであったもう一つの人生の名前であり、そして同時に、少女がこれから送る人生の名前であるかもしれないのだ。少女が発するその名前の持つ響きの儚さに胸を掻きむしられることのみが、私たちに許されたささやかな鎮魂であることを、若き脚本家も、真摯な俳優陣も、そして巧みな演出家である監督も、知っていたのだろう。少年が、少女の名前を噛み締めながら一人草原を歩き出すように、私たちも、背中の荷物を背負い直し、歩き出すであろう。景色は変わっている。「1Q84」を読んだ後、私たちの周りの景色は変わっただろうか? 映画のささやかさによる、大いなる勝利である。
いよいよ今週末!
映画一揆 井土紀州2011inOSAKA 大阪電撃作戦
詳しいスケジュールは→http://www.cinenouveau.com/image/eigaikki.jpg
大阪九条シネ・ヌーヴォXにて 3/5(土)~3/18(金)まで
http://www.cinenouveau.com/
※3/12(土)ヌーヴォXにて、監督トークショー開催予定!
引き続きPLANET+1(中崎町)にて 3/18(金)~3/24(木)まで
http://www.planetplusone.com/
映画一揆 井土紀州2011 名古屋ええじゃないか!
名古屋シネマテークにて開催決定!
http://cineaste.jp/
映画一揆 井土紀州2011 in 高崎
シネマテークたかさきにて開催決定!!!
http://takasaki-cc.jp/top
その、取り返しがつかないことが起きてしまったのではないかという予感は徐々に事実に裏打ちされていく。彼ら—オウム真理教を彷彿とさせる、「カフ・サマージ」と称する宗教団体。彼らの提示の仕方がなかなか巧妙なのである。彼らの住居の水道管が壊れているのだが、水道屋が真面目に修理する気がないらしいこと。ポリタンクは生活用水のためであったこと、常に近隣住民の嫌がらせを受けていることなどが、淡々と、内容から考えるといささかぶっきらぼうに描写される。
オウム真理教と言えば、1995年3月に起きた、世間を震撼させた無差別テロ、地下鉄サリン事件を思い出さない人はいないだろう。私自身も、その二ヶ月前に起きた阪神淡路大震災とともに、自分の足元の地面がガラガラと崩れ去ってしまうような、何か根元的な恐怖を感じたことを今でもよく覚えている。あれから15年経ち、村上春樹は事件の被害者、加害者双方に綿密なインタビューを行い、書籍として世に問うた。森達也はオウム真理教の残されたメンバーに密着し、彼らの素顔を描写すると同時にマスコミ報道の在り方を問うたドキュメンタリーを発表した。しかしフィクション、実写の映画というといささか分が悪いようだ。オウム真理教、地下鉄サリン事件に真正面から取り組んだ映画というと『カナリア』(塩田明彦監督・2005年)くらいしか浮かばないのである。
アメリカでは9.11の後、それを題材とした映画が何本も、時には外国人監督まで集めて(『セプテンバー11』・2003年)作られたのに較べ、邦画界は一部を除いてこの恐ろしい事件を、黙殺あるいは封印したかのようだ。それは、9.11がイラクという分かりやすい「外部の敵」により行われたテロであったのに比べ、オウム真理教は明らかに同朋、しかし同朋と認めたくない同朋であったことが原因の一つとしてあるのかもしれない。それは、「外部の敵」ではなく、私たちの内部に巣くうもの、いつもは押しこめているのだが、何かきっかけさえあればぬるぬると表に出てきてしまうようなものが寄り集まって形になったものなのではないか、そんな恐れがあるいは遠因であるのかもしれない。私たちはきっと忘れたかったのだ。
映画はそんな私たちの恐怖を無駄に呼び起こして拒絶反応を起こさせないように、しかし彼らへの情緒的な同調は避け、嫌がらせに耐え修行に励む信徒たちを淡々と描写する。サリン事件に対しての直接の言及はないのだが、「他の場所を探しましょう」という信者に、リーダー格の女性が言う「ここだって随分探したのよ」という言葉や、嫌がらせの音頭を取っている元信者の「一体何人殺したんだよ!」という言葉が、決定的な恐ろしい事件が過去にあったことを想起させるのみである。
そして宗教団体と市民の対立を縦軸とすれば、同時に横軸として愛らしい少女と不幸な少年のボーイ・ミーツ・ガールの物語を滑り込ませる荒業をやってのける。‘ポーシャ’と名乗るその少女。過去の傷から宗教に傾倒し、「現世の幸福に執着しない」ことで救いを得ようとするこの可憐な少女に感情移入しないでいることは難しい。オウムのような新興宗教団体とその信者が孕む闇を、抽象ではなく、あくまで血の通った一人の少女を通してその内面へと観客を取り込んでゆく過程は非常に巧みである。仲間に苛めにあい、「カフ・サマージ」への嫌がらせを強要され、日々殴られながらパシリのようなことをやっている少年と、そんな少女がまるでお互いの闇に引き寄せられるように辿り着いたのが屋上であったのも、まるで必然であるかのようだ。屋上から臨む夕焼け色に染まった「現世」は、暖かな人々の営みが感じられ、その後景と溺れそうになって必死に手を伸ばしお互いを求め合っているような少年と少女の内面との乖離に思わず息を呑む。悲劇の予感は二人に貼り付いているようであり、その体を縛り、ぎこちなくさせる。そのまるで事故のように起きる接吻が、何か境界線を切り裂くような、予感を抱かせるとしても。
少年と少女のささやかな邂逅は、やりすぎた嫌がらせが、教団側の爆発的な反動となって現れた暴力事件により、あっけなく終わりを迎える。市民側の一人を「死ぬほど」殴ってしまった教団は、立ち退きを余儀なくされ、少年と少女は別れの時を迎える。非難がましい顔一つせずに去ってゆく彼らを見る時、私たちは、私たちが闇に葬り去っていた、しかしだからこそ十五年もの間ひっそりと自らが背負い続けてきた荷物の正体を知ることになる。そして、そこには未来へのささやかな希望さえ用意されているのだ。この物語は村上春樹のベストセラー小説「1Q84」のように、運命的な偶然も、絶対の愛も、パラレルワールドも、新しい命も、産み出さない。ただ、少女が言い残したもう一つの名、本当の名が残されるだけである。しかしそれこそが、少女の送るはずであったもう一つの人生の名前であり、そして同時に、少女がこれから送る人生の名前であるかもしれないのだ。少女が発するその名前の持つ響きの儚さに胸を掻きむしられることのみが、私たちに許されたささやかな鎮魂であることを、若き脚本家も、真摯な俳優陣も、そして巧みな演出家である監督も、知っていたのだろう。少年が、少女の名前を噛み締めながら一人草原を歩き出すように、私たちも、背中の荷物を背負い直し、歩き出すであろう。景色は変わっている。「1Q84」を読んだ後、私たちの周りの景色は変わっただろうか? 映画のささやかさによる、大いなる勝利である。
いよいよ今週末!
映画一揆 井土紀州2011inOSAKA 大阪電撃作戦
詳しいスケジュールは→http://www.cinenouveau.com/image/eigaikki.jpg
大阪九条シネ・ヌーヴォXにて 3/5(土)~3/18(金)まで
http://www.cinenouveau.com/
※3/12(土)ヌーヴォXにて、監督トークショー開催予定!
引き続きPLANET+1(中崎町)にて 3/18(金)~3/24(木)まで
http://www.planetplusone.com/
映画一揆 井土紀州2011 名古屋ええじゃないか!
名古屋シネマテークにて開催決定!
http://cineaste.jp/
映画一揆 井土紀州2011 in 高崎
シネマテークたかさきにて開催決定!!!
http://takasaki-cc.jp/top
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by eigaikki
| 2011-03-03 16:06