2010年 11月 27日
【「中間」の映画として振舞う覚悟】 中山洋孝 |
【「中間」の映画として振舞う覚悟】
大作でも無予算でもない中間の規模の映画、プログラムピクチャーが構造上ほとんど機能しなくなってしまった。井土紀州はそのほとんどない「中間」の映画をつくろうと、『ラザロ』三部作を撮り、『行旅死亡人』を撮り、そして今回「映画一揆」の名で上映特集をおこなう。もう今後期待できるかもわからない、質・量の厚い層を映画に取り戻すため、自ら「中間」を名乗り撮り続けているのだとすれば、それはかつて『百年の絶唱』で勝負したとき以上の厳しい道程になるに違いない。
もっともかつて「中間」であった映画、更には90年代に単館レイトショー上映してきたピンク映画と比較しても、映画美学校フィクションコース高等科でのコラボレーション作品である『土竜の祭』とはつくられている環境が異なる。『土竜の祭』は「映画一揆」のなかでも、それまでの「中間」の映画に最も近づこうとしているが、技術的には最もかけ離れている(それにしてもコラボレーション作品という都合はあるのだろうが、クレジットの脚本に連なる名前の多さにはつい身構えてしまった)。果たしてこのつくろうとしている映画と、製作状況のズレに対して、どのように振舞うのが戦略的といえるのか。映画監督はどんな条件でも撮るべきかもしれない。でもそこで目指す映画は、規模に応じて変わってくるはずだ。
それでも井土紀州は映画を撮る。大作・無予算の境界線を歪ませるように、この規模ではありえないはずの出来事が思いもよらぬかたちで生じる映画を撮る。
そして自ら「中間」と名乗ろうという態度は、今回の上映特集を「映画一揆」と名付けたこと、先日の阿佐ヶ谷ロフトでの公開記念トークイベント「映画の役目は終わった、のか?!」後のツイッターにて監督本人がスガ秀美、板坂剛、安井豊のシネ砦について言及しつつ語っていた「空虚な過激さ」と通じるものがある(イベントの前半に話題となっていた、作り手がツイッターをやる意味、「作り手の言葉の重さ」について何ら省みずツイッターでの発言を引用してしまったが……)。もう「中間」であるための支えなど持っていないかもしれない映画を、より低予算の学校課題であえて名乗ってしまおうという「空虚な過激さ」は、ひたすら苦しく耐えるものではなく、なかなか攻撃的かつ魅力的な姿勢だ。
『行旅死亡人』の女二人組はバイト先のスーパーに縛られることなく、また過剰に長宗我部陽子の人生に同情することもなく、あくまで自分というものを崩そうとしない(エンドクレジット後の会話は悪意すら感じる)。最初は言葉遣いに戸惑ったものの、確信犯的にこのような人物を井土紀州は映画に出したに違いない。『土竜の祭』の女たちは『行旅死亡人』の流れを継いでいる(ともに阿久沢麗加出演)。彼女たちの行動は益々行き当たりばったりで、しかも統一感があるのでもなく、互いの何となくやりたいようにやっているうちに、いつの間にかみんなして事件と向き合っている……。井土紀州は「中間」と名乗るための支えを、彼女たちのふてぶてしさに見いだそうとしている。その証拠に、主演女優三人組の風貌はどれも堂々としていて、男顔負けに頼もしい。
中山洋孝
http://d.hatena.ne.jp/dvu/
『土竜の祭』は11月27日(土)~12月3日(金)21:00~ ユーロスペースにて
※11/27(土) 上映前、監督・出演者による舞台挨拶あり
※11月28日(日)『土竜の祭』上映後 ライブ一揆vol.1「ヴィクティム・オブ・ムービー・ミュージック」出演 平山隼人、他
11月29日(月)『土竜の祭』上映後トーク、長宗我部陽子(『土竜の祭』主演)、高橋洋(脚本家・映画監督)、井土紀州
大作でも無予算でもない中間の規模の映画、プログラムピクチャーが構造上ほとんど機能しなくなってしまった。井土紀州はそのほとんどない「中間」の映画をつくろうと、『ラザロ』三部作を撮り、『行旅死亡人』を撮り、そして今回「映画一揆」の名で上映特集をおこなう。もう今後期待できるかもわからない、質・量の厚い層を映画に取り戻すため、自ら「中間」を名乗り撮り続けているのだとすれば、それはかつて『百年の絶唱』で勝負したとき以上の厳しい道程になるに違いない。
もっともかつて「中間」であった映画、更には90年代に単館レイトショー上映してきたピンク映画と比較しても、映画美学校フィクションコース高等科でのコラボレーション作品である『土竜の祭』とはつくられている環境が異なる。『土竜の祭』は「映画一揆」のなかでも、それまでの「中間」の映画に最も近づこうとしているが、技術的には最もかけ離れている(それにしてもコラボレーション作品という都合はあるのだろうが、クレジットの脚本に連なる名前の多さにはつい身構えてしまった)。果たしてこのつくろうとしている映画と、製作状況のズレに対して、どのように振舞うのが戦略的といえるのか。映画監督はどんな条件でも撮るべきかもしれない。でもそこで目指す映画は、規模に応じて変わってくるはずだ。
それでも井土紀州は映画を撮る。大作・無予算の境界線を歪ませるように、この規模ではありえないはずの出来事が思いもよらぬかたちで生じる映画を撮る。
そして自ら「中間」と名乗ろうという態度は、今回の上映特集を「映画一揆」と名付けたこと、先日の阿佐ヶ谷ロフトでの公開記念トークイベント「映画の役目は終わった、のか?!」後のツイッターにて監督本人がスガ秀美、板坂剛、安井豊のシネ砦について言及しつつ語っていた「空虚な過激さ」と通じるものがある(イベントの前半に話題となっていた、作り手がツイッターをやる意味、「作り手の言葉の重さ」について何ら省みずツイッターでの発言を引用してしまったが……)。もう「中間」であるための支えなど持っていないかもしれない映画を、より低予算の学校課題であえて名乗ってしまおうという「空虚な過激さ」は、ひたすら苦しく耐えるものではなく、なかなか攻撃的かつ魅力的な姿勢だ。
『行旅死亡人』の女二人組はバイト先のスーパーに縛られることなく、また過剰に長宗我部陽子の人生に同情することもなく、あくまで自分というものを崩そうとしない(エンドクレジット後の会話は悪意すら感じる)。最初は言葉遣いに戸惑ったものの、確信犯的にこのような人物を井土紀州は映画に出したに違いない。『土竜の祭』の女たちは『行旅死亡人』の流れを継いでいる(ともに阿久沢麗加出演)。彼女たちの行動は益々行き当たりばったりで、しかも統一感があるのでもなく、互いの何となくやりたいようにやっているうちに、いつの間にかみんなして事件と向き合っている……。井土紀州は「中間」と名乗るための支えを、彼女たちのふてぶてしさに見いだそうとしている。その証拠に、主演女優三人組の風貌はどれも堂々としていて、男顔負けに頼もしい。
中山洋孝
http://d.hatena.ne.jp/dvu/
『土竜の祭』は11月27日(土)~12月3日(金)21:00~ ユーロスペースにて
※11/27(土) 上映前、監督・出演者による舞台挨拶あり
※11月28日(日)『土竜の祭』上映後 ライブ一揆vol.1「ヴィクティム・オブ・ムービー・ミュージック」出演 平山隼人、他
11月29日(月)『土竜の祭』上映後トーク、長宗我部陽子(『土竜の祭』主演)、高橋洋(脚本家・映画監督)、井土紀州
by eigaikki
| 2010-11-27 15:06