2010年 11月 12日
映画が公開するとき 兼沢晋(映画一揆宣伝スタッフ) |
私は学生の頃、ラザロ、『複製の廃墟』編で、制作部の一員として現場に携わって以後、井土さんの『ラザロ』『行旅死亡人』、また木村君の『へばの』と、各々の作品が東京で上映する際に、宣伝の手伝いで参加してきた。現場に参加した『複製の廃墟』の撮影は、もう6年前のことだ。
にもかかわらず、『犀の角』、『土竜の祭』を、去年、『行旅死亡人』公開時のオールナイトイベントで観た時は、その作品の現場に携わったスタッフに、ほのかな嫉妬の感情を抱いてしまったのだった。
いつの間にか、若い、いきいきしたスタッフが、次々と新しい井土作品を生み出している…ああ、なんて恥ずかしい感慨だろう。
そのオールナイトの日、彼らの多くが来場した劇場内の空気は、これから上映される映画への、彼らの思いで満たされているようであった。
それは完全に私の思い込みなのだけども(笑)、あのときの劇場の光景は、そう見えたのだ…。そんな生めかしい気配のなかでみた新作は、まず内容よりも、つくりての存在をひしひしと感じる時間であった。
彼らがこのスクリーン一杯に展開されている事柄を目の前にしていた時というのは、すでに過去のことだ。何故か、そんなふうに思って井土さんの新作を観てしまうのは、かつての自分を、どこかスクリーンに流れる時間から感じてしまうからだろう。きっと私よりも、ずっとしっかりしているのは間違いなくて、おこがましいのだけれど、スクリーンに映る映像からは、そこに、かつての自分みたいな存在の気配を感じてしまう。しかし、それはすでに、自分が立ち会うことの出来ない過去なのである。こんな書き方はおかしいと思いつつ、やはり、それは取り返しのつかない時間に感じられるのだ。
そう感じてしまうと、上映が終わるまで、その映画体験は、「これまで私はなんとダラダラ生きてきたんだ」と、狼狽する時間に変わる。
しかし、それは、同じく宣伝で参加させてもらった『へばの』を、『行旅死亡人』を、はじめて内覧試写でみたときにも、感じたことであった。
生々しいつくりての熱気を肌に感じながら、そのまま観るというのは、場合によっては、どこか敗北感をもたらす体験なのだ。それはいいとか悪いとかではなく、逃れがたい感触である気がする。
たぶん、映画の大きな時間に対して、その場の雰囲気に便乗し、一個人で向かおうとするから、圧倒されるのだ。こういったことは、映画づくりを志す人が、知っている人の自主映画を、内覧上映のような形で観たときに、少なからず体験することではないだろうか。
…しかし、こんな忸怩たる思いからは、もうすぐ、やっと解放されるのだ。
『行旅死亡人』オールナイトイベントで、『犀の角』、『土竜の祭』を観た私は、その後、公開中だった『行旅死亡人』を、気分的にそうしたくなり、一観客として、料金を払って改めて観たのだった。
それは…おおげさかもしれないが、映画の本来の姿とは何かを改めて確認する体験だった。
公開前は、やはり嫉妬していた『行旅死亡人』が、惚れ惚れする程かっこよかった。映画はいったん公開すると、そんな忸怩たる思いは痛快に消し去って、ただ上映されるのだった。
そのとき、映画は新たに生まれ変わる。
映画一揆ではたくさんの井土作品が、改めて、そのときを迎える。
そして、どんな姿になって輝くかをこれからみることになる。その瞬間が、待ち遠しい!
にもかかわらず、『犀の角』、『土竜の祭』を、去年、『行旅死亡人』公開時のオールナイトイベントで観た時は、その作品の現場に携わったスタッフに、ほのかな嫉妬の感情を抱いてしまったのだった。
いつの間にか、若い、いきいきしたスタッフが、次々と新しい井土作品を生み出している…ああ、なんて恥ずかしい感慨だろう。
そのオールナイトの日、彼らの多くが来場した劇場内の空気は、これから上映される映画への、彼らの思いで満たされているようであった。
それは完全に私の思い込みなのだけども(笑)、あのときの劇場の光景は、そう見えたのだ…。そんな生めかしい気配のなかでみた新作は、まず内容よりも、つくりての存在をひしひしと感じる時間であった。
彼らがこのスクリーン一杯に展開されている事柄を目の前にしていた時というのは、すでに過去のことだ。何故か、そんなふうに思って井土さんの新作を観てしまうのは、かつての自分を、どこかスクリーンに流れる時間から感じてしまうからだろう。きっと私よりも、ずっとしっかりしているのは間違いなくて、おこがましいのだけれど、スクリーンに映る映像からは、そこに、かつての自分みたいな存在の気配を感じてしまう。しかし、それはすでに、自分が立ち会うことの出来ない過去なのである。こんな書き方はおかしいと思いつつ、やはり、それは取り返しのつかない時間に感じられるのだ。
そう感じてしまうと、上映が終わるまで、その映画体験は、「これまで私はなんとダラダラ生きてきたんだ」と、狼狽する時間に変わる。
しかし、それは、同じく宣伝で参加させてもらった『へばの』を、『行旅死亡人』を、はじめて内覧試写でみたときにも、感じたことであった。
生々しいつくりての熱気を肌に感じながら、そのまま観るというのは、場合によっては、どこか敗北感をもたらす体験なのだ。それはいいとか悪いとかではなく、逃れがたい感触である気がする。
たぶん、映画の大きな時間に対して、その場の雰囲気に便乗し、一個人で向かおうとするから、圧倒されるのだ。こういったことは、映画づくりを志す人が、知っている人の自主映画を、内覧上映のような形で観たときに、少なからず体験することではないだろうか。
…しかし、こんな忸怩たる思いからは、もうすぐ、やっと解放されるのだ。
『行旅死亡人』オールナイトイベントで、『犀の角』、『土竜の祭』を観た私は、その後、公開中だった『行旅死亡人』を、気分的にそうしたくなり、一観客として、料金を払って改めて観たのだった。
それは…おおげさかもしれないが、映画の本来の姿とは何かを改めて確認する体験だった。
公開前は、やはり嫉妬していた『行旅死亡人』が、惚れ惚れする程かっこよかった。映画はいったん公開すると、そんな忸怩たる思いは痛快に消し去って、ただ上映されるのだった。
そのとき、映画は新たに生まれ変わる。
映画一揆ではたくさんの井土作品が、改めて、そのときを迎える。
そして、どんな姿になって輝くかをこれからみることになる。その瞬間が、待ち遠しい!
by eigaikki
| 2010-11-12 13:11